闇より深い闇ブログ

闇深き奇天烈人間のブログ

鋼の意志の作り方

努力次第で何とかなることとどれだけ努力してもどうにもならないことがある。

努力が必ず報われるならば世界は成功者だらけになる。

現実はそう甘くない。

 

私の音楽の師は厳しい方だ。

ご自身も作曲中は数日間はスタジオから一歩も出ていらっしゃらないし、自分が掲げた目標は必ず遂行なさる。

そんな先生の元で10代からビシバシ鍛えて頂いてきたからこそ、私にもそれなりの根性が培われたのだと思う。

父が亡くなった日にも1日2曲作るという課題をこなさねばならず、案の定その曲の出来が酷くて「こんな曲じゃ天国には届かないよ」と言われひと晩じゅう泣きながら次の曲を作ったこともある。あの辛さに比べたら大抵のことは耐えられる。

脆弱だった意思も鍛えられれば少しずつ強くなる。

そして意志の強さは継続の源になり、継続することで足りない才能や能力を少しだけ補える。それをひたすら繰り返していけばいい。

重ねれば重ねるほどほんの僅かずつでも前に進める。

努力とは地味な作業だ。

 

とはいえどれだけ努力をしてもどうにもならないことも数多存在する。

生き物には再生できないパーツもたくさんあり、私にとってどの器官より大切な耳(聴力)もそのひとつだ。いちど失った音域は元のように聴こえることは二度とない。

これは私の人生最大の「もはやどうすることもできない悲劇」だ。

 

人生なんて越えられない壁だらけだ。

爪が全部剥がれるほど必死に足掻いて乗り越えようとしても越えられない壁だらけだ。

どうせ越えられないならば痛い思いをしながら時間を無駄に費やすことはない…その選択もあながち間違ってはいないと思う。

血が滲むどころか出血多量で意識がなくなりそうな努力を重ねてきたことが一瞬で「どれだけ努力してももうどうにもならない」ことに反転してしまった瞬間の絶望は言葉では表現できない。

きっとそんな経験がおありの方もいらっしゃるのではないだろうか。

そこから先の人生をどう生きていけばいいのか全くもってわからない。まさに予測不可能な展開。明日も明後日も自分は努力を重ねていくことを当たり前に信じていたのだから。他の人生なんて爪の先ほども考えたことがないのだから。

 

悲しいことだが、私は自分の人生で何よりも大切なものを永遠に失った。

とはいえ本当にそうだったのか。

聴こえない音域があるなりに何か手立てはあったのかもしれない。何かしら妥協すればよかったのかもしれない。もっと頑張ればよかったのかもしれない。

あまりにも音と自分との関係に完璧なる理想を求め描き過ぎていた私は、0か100かしかない私は、完璧なる理想を築くことが不可能になった瞬間に、100を求められなくなった瞬間に、0にすることを選んでしまった。

完璧じゃなくなってもよかったのではないか、いやそんな選択をしてしまえばもはや表現者としてあまりにも無様…今でも毎日呻吟する。

 

話が逸れてしまったが、そういう後悔を抱えているが故に「努力ができること」のありがたみを痛感している。

やりたくてもできなくなってしまう日は必ず訪れる。

ならばできるうちに死にものぐるいでやっておかないと絶対に後悔する。

やらなかったことを後悔するより、やるだけやってそれでも叶わなかった絶望の方が私は好きだ。

ひとつの道を極めようと他の全てをなげうって過ごした時間は永遠の宝ものだ。そこに一片の悔いもあろうはずがない。

そしてこのよくわからないスポ根魂のような志を抱え、今日も私は生きている。

 

価値と幸せの話

世界でいちばん自分が無価値だと思っている私にはいつも生きる理由が存在しない。

この感覚を理解できる人はいないかもしれないが、決して投げやりとか自暴自棄とかではなく、言葉の意味そのままにただ自分のことが他の誰よりいちばんどうでもいいと思っているだけだ。

 

だから、こんなにもどうでもいい存在を必要だと言ってくれる人には喜んで全部を差し出そうとするのだが、相手が言ってくれた「必要」と自分のそれとの温度差があまりにも違いすぎることにしばしば絶望する。なんとも強欲な話である。

でも、必要とは「必ず要る」ものなのではないのか。

その存在がなくなったら息もできなくなるほどの、この世界のどこにも代わりがないものなのではないのか。

少なくとも私にとっての必要はそういうものだ。

それゆえ相手にとって自分はさほど必要ではないと感じてしまった瞬間に己の無価値さを改めて噛み締め、そっと距離を置く決心をする。

 

幸せになりたいと考えたことがない。

ベースに「自分が生まれてきたことによって不幸になった人たちがいる=忌むべき存在」という思いがあるので、そんな烏滸がましいことは考えてはいけないと無意識に捉えているのかもしれない。

それになんとなく幸せとは意識して得られるものではないような気もする。幸せをよく知らないからわからないが。

いつもどこか冷めた目で自分の生き様を俯瞰しているもうひとりの自分がいる感覚。

 

鬼滅の刃の鬼のようなキャラクターに酷く感情移入してしまう。

とはいえ自分が天から何も与えられなかったり取り立てられるばかりの人生であっても、他の人間も不幸になれと妬み嫉みを持つことはない。

理不尽なことも多いのが人生だけれど、幸せに暮らしている人たちだってきっとそこに到達するまでには様々なことがあっただろうし、幸せを維持することだってきっと大変だ。

心が寂しいときにはほんの少し羨ましくなったりもするけれど、私の辛さは私だけが抱えていくべきものであり誰のせいでもない。

 

幼稚な人間なので瞬間湯沸かし器のように腹をたてることもあるし、その感情を相手にぶつけてしまうこともある。

でも時間が経てば「ごめんなさい」と思う。

もう仲直りできないであろう相手も何人かいるけれど、もしその人たちが困っていたらいつでも私は助けたいと思う。相手はきっとそれを望んだりはしないだろうけれど。

そしてどんなに腹をたてた相手でもやっぱり「不幸になればいい」とは思わない。幸せを祈れるまで…は微妙な相手もいたりするが。

 

私にとっての「幸せ」はきっと、誰かに必要とされることだったのだと思う。

私が考える「必要」の重さで誰かに必要とされることだったのと思う。

そしてきっと、こんな私をそこまで必要としてくれる相手には生涯出逢うことはない。

だからいい。幸せになれなくていい。

 

最近やっと人生におけるいろんな諦めがつきました、というおはなし。

トラウマ脳

某作家先生のツイートと、それに対する読者の意見ツイートをこの数日よく目にする。

詳細を知っているわけではないのだが、恐らくご自身の矜恃をいたく傷つけられる出来事がおありだったのではないかと推測する。

 

当たり前のことだがSNSなどでの発信に対しては賛同する意見もあればその逆もある。

公の場でネガティブな発言をし続けると善と悪が反転してしまうこともある。

確かに数分おきに不安定なツイートを繰り返しなさっておられるのを見ると心配になってくる。

けれどそこは豆腐メンタル代表格の私なのでその言動にいたく共鳴してしまう。

 

以前、精神科のカウンセリングに通っていたことがある。

その際に「トラウマ脳」という表現で私の症状を説明された。

検索すると「海馬のシナプスで…」などという解説が出てくるのでそこは割愛する。要は深く傷ついた記憶がずっと残りやすい脳なのではないかと解釈している。

 

どんな人でも嫌なことやネガティブな記憶に悩まされることはあるだろう。

ただ、それを過去の記憶として想起できるまでに必要な時間には個人差があるし、中には何年何十年経ってもその辛かった気持ちが1ミリも癒えることがない場合もある(私にはそういう記憶が幾つもあり、それが人生のベースになってしまっている)。

 

誰かがネガティブな感情をひとりでは抱えきれず吐露していると最初のうちは周囲も親身になり話を聞いたりするが、回を重ねるにつれ「まだ言ってるの?」といった反応が増えてくる。これは仕方ない。

けれど周囲にとっては「もう過去の話」であっても当事者にとっては「現在も続いている」話だったりもする。

「まだ」かどうかは当事者にしかわからないことだ。

 

同じ場所から動けずにいる人を見ることを不快に思う人もいるだろうし、心配することに疲れる人もいるだろう。自分までネガティブな感情に引っ張られるのは嫌だと感じたとしても決しておかしくはない。

でも、そこから動けないことを批判はしないで欲しいと思う。

できることならその負の場所から抜け出したいといちばん願っているのは間違いなく当事者なのだから。

そっと距離を置くなどしてもらえると非常にありがたい。

 

極論を言ってしまえば、気持ちの切り替えが上手な人とそうではない人との間にはなかなか越えられない壁があるように思う。

例えば恋愛などもそうで、誰かと破局してすぐに次の相手を見つけられるタイプと果てしなくダメージを引き摺るタイプとでは感覚的に相容れない。

とはいえ自分に似た気質の人ばかりと親しくなれる訳でもないので人間とは本当に難しい。

いのち

生きるということは何かを得、やがてその何かを失うことだ。

どんなに大切なものがあっても、どんなに愛する存在があっても、鬼籍に入る時には何ひとつ誰ひとり持っていくことができない。

 

命はお金では買えない。

確かに財力があれば治療の選択肢は増える。延命に結びつくこともあるだろう。医療も目まぐるしい進化を遂げている。

けれどどれだけ大金を積もうが私財をなげうとうが決して叶わぬこともある。

 

人は経験からそれを学ぶ。

近しいものをひとりふたりと見送ることの積み重ねから時間が有限であることを知る。

漠然としていた『死』というものが少しずつ現実味を帯び、そこで初めて様々な葛藤を抱える。

失った者への後悔、己に残された時間への焦燥、そして全てが無に帰すことへの恐れ。

 

短命家系に生まれ育った私にとって、死はいつも身近なものだ。

別れはいつも突然で、どんなに嘆き悲しもうとも時間は巻き戻せない。

誰かを失った時、他の存在でそれを埋めたり癒せたりできればいいのだが、実際にそんなことができる器用な人間になどなかなかなれない。

 

明日どころか次の瞬間に自分がこの世にいるかどうかさえわからない。

だから今この瞬間を大切にしなくてはならないと痛感しているはずなのに、人はまた弱さに流される。

「明日でいいや」ほど傲慢なことはない。なぜ明日がまた訪れてくれるだなどと確信をもてるのか。

 

様々なことを考えるにつれ、ただただ虚しくなり動けなくなってしまう。

私は「今が楽しければそれでいいや」という思考が好きではなく「今日は苦しんで明日は少し楽だといいな」の積み重ねで日々を歩みたい。

でも果たして明日は訪れるのだろうか…?

必死に財産を築いても命尽きてしまえば遺った者たちの諍いの種にしかならなかった父の生き様と死に様を見てきたし、必死に積み上げたものが一瞬で崩れ去る無情さを我が身をもって経験してきた。

もういいのではないか、どんなに頑張っても行き着く先には何もないではないか、ただ流されて日々を重ねていけばいいのではないか、なんなら今この瞬間に尽きたとしてもいいではないか…日々そんなことを呻吟する。

必死に何かを得たとして、墓場までそれは持っていけないと考え始めてしまえばこんなに虚しいことはない。

「頑張って生きましょう!」なんて前向きな言葉は1ミクロンも出てこない。

 

私の思考はいつも矛盾だらけ。

肯定したいのに否定するしかなかったり、建設的に生きたいはずなのに抑え難い破壊衝動がいつも存在したり。

この命はなんのために存在しているのだろう。

この人生に果たして意味はあるのだろうか。

いつかその答が見つかるのだろうか、生涯見いだせぬままなのだろうか。

ダメなところ 其ノ壱

『優しさだけでは生きていけない

   でも優しい人が好きなの』

大好きな歌詞だ。

心からそう思う。優しい人間が生きるには現実は残酷すぎるが、それでも優しい人が好きだ。

では『優しさ』とは一体なんだろう?

 

友人に恵まれ、家庭以外の世界ではたくさん周囲の優しさに救われてきた。

話している時の声の調子だったり、連絡した時の文章の感じであったり、連絡の頻度であったりの小さな変化から何かしら感じてくれた時にはさりげなく向こうから「どうした?」と聞いてくれるような子たちが今でもずっと傍にいてくれる友人たちだ。

同じように私も彼ら彼女らの小さな変化には敏感に反応する。理屈ではなく長年の付き合いの中で培われた感覚で無意識に理解できる。

ひとりひとり性格や気質は違っても、その根幹はみんな暖かく優しくて、私はそんな友人たちが大好きだ。

 

悲しみ特化型の人間なので友人知人が酷く落ち込んだ時の駆け込み寺になることが多い。

もちろん楽しいことも共有はするが、それよりも圧倒的に人生に於けるマイナスの話をされることの方が多い。

たくさんの人たちと笑いあうことはあまり得意ではないし、負ってしまった心の傷を癒せる力だって持ち合わせてはいない。

それでもその傷が化膿したりしないように、ほんの少しでも痛みがましになるように、薬にはなれなくてもキズパワーパッドのような存在になりたいといつも思っている。

受けた傷がなかなか治らないことはよく理解しているし、他人が助言したところでなんの解決にもならないし、最後には自分で立ち向かっていくしかないのが人生だ。

その上で、でもどうしても放っておけない。

私はその痛みを知りすぎているから。

時間しか解決しない痛みも、恐らく生涯続くであろう痛みも抱えているから。

そして。

全部ひとりで抱えるしかない、でも時々触れる人の優しさや思いやりに助けられて「もうちょっとだけ頑張ろう」と思えることを知っているから。

 

申し訳ないことに器量不足で空回りしかしないのに、頭で考えるより先に口から言葉が出てしまう。

 

SNSで不特定多数の方々と交流させていただく機会が増え、それが自分の最大の欠点であるということに何度も気づかされるやり取りがあった。

例えば落ち込んでいる相手に「話すことで楽になることがあったらいつでもなんでも話してね」ということが大NGだと学んだ。

これは優しさの方向性がおかしく、私のようにおかしな慰めをする人間はSNS上ではまずいないらしい。

「聞いて欲しいことがあれば自分からいうからそれまで放っておいてくれ」という至極当然の感情を私は汲み取ることができなかった。

優しさにもいろんな形があり、敢えて言葉をかけないことも優しさであるのだということを改めて気づかされた。

なんとも情けないことである。

さらに情けないことに、手酷く学習したはずなのにまたもや同じような場面でいけしゃあしゃあと余計な言葉をかけてしまう。学習能力がないのか理性がないのか反射だけで生きているのか。

思わず言葉をおかけしては後に猛省...そこから「やはり私は人間関係の構築が絶望的に下手くそな人間だ、もう消えてしまいたい」と落ち込む。

多分SNS向きではないのだろうな、とも思う。

余計なことをしすぎてしまう。

 

こんな私の気質を理解し、それを善しとしてくれる人が私の友人たちだ。

合わない人にはとことん嫌悪されるタイプ。

自分でもいちばん嫌いなところで、でもそこを失ってしまうと私という人間ではなくなってしまうところ。

過去にかけた様々なNGワードを反芻しては真夜中に己の不甲斐なさに悶々としてしまう。

相手によって接し方を変えることは理解しているが、言葉だけのやり取りのSNS上ではそれが上手くできない。

顔色を見ることもできないし、相手の本質になかなか気づけないから痛恨のミスで相手を傷つけたり不快にさせてしまうこともしばしば。

本気で『SNSに於ける優しさ講座』を受講したいといつも思っている。

人生観

どんな人生も尊い

綺麗ごとではなく、歳を重ねるとつくづくそう感じる。

目標を掲げ、あらゆることを犠牲にしてでも邁進する姿は言わずもがなに尊い

けれど生きることに疲れ果て、それでも必死に己を奮い立たせ次の朝を迎える人のそれもまた尊い

 

自分がグダグダな生き様を晒している私は大抵の人を否定しない。

善悪の判断もつかない幼子であればまだしも、いい大人に意見するのは烏滸がましいことだと思っている。

例えば借金を背負っている人がいたとして、その人に意見する権利があるのは「借金の肩代わりをして欲しい」と頼まれ実害を被りそうになった相手だけなのではないかと考える。言うなれば「一銭の手助けもしない人間が口出しすべきではない」と思うのだ。

同様にテレビなどで取り沙汰される不倫などのゴシップも然り。叱責できるのは裏切られた家族であり、事情の表面しか知らない人間がああだこうだと言うのはあまり美しくない。

勿論、自分の意見というものは持って当然なので「生理的に苦手だな」とか「自分は嫌いだな」と思うのは自由だとも思うが。

 

話を少し広げさせていただく。

掲げた目標や決めたことを守りきれない人がいたとして、それでも別にいいではないかとも思っている。

後悔するのも自分だし、後悔さえしないのであれば別にそれでもいいと思う。

人間なんて弱いものだ。この世界に「何がなんでも守らなくてはいけないもの」なんてないと思わねばやっていられないことも多々ある。

重複するが、目標というものは自分自身に課すものであり、他者のために遂行するものではない。

 

自分の人生は自分だけのものだ。

たとえ家族や恋人、或いは友人であってもその総てを丸抱えすることは極めて難しい。

人には心がある。

何に意味や価値、幸せを見出すかは人それぞれに違う。そして他者に迷惑をかけない限り、人には幸せになる権利がきっとある(と思いたい)。

私はグダグダの甘ちゃん人間なので、自分が大切に思う人たちがどんな人生を送ろうともエールを送る。

なんの手助けもできないぶん、せめて味方ではい続けたいと思う。

世間的には間違っているように見えることであっても、決して胸を張れないようなことをときにしてしまったとしても、その時その時に真剣に考えてした行動なのであれば否定はしない。(好きか嫌いかはあるかもしれないが)

 

それが私の人生観だ。

真面目に不眠を考える

極度の不眠症だ。

病院では3種類の睡眠薬を処方されているし、脳外科でも婦人科でも副作用に眠気が明記されている薬を敢えて処方して頂いている。

秋花粉症の季節なので抗ヒスタミン薬も服用している。

でも眠れない。全く眠くならない。

細切れにトータル3時間も眠れたらいい方である。

 

既出かもしれないが、私の不眠症の歴史は小学時代から始まっている。

当時から家庭の事情や運動神経のなさなどを理由にいじめられていたので、毎日夜になると翌日学校に行くのが嫌で寝つけなかった。

その結果、母からの虐待が始まった。

「なんであんたは普通に眠れへんのや!」と毎晩殴られ蹴られ抓られ、真冬に外に放り出されたこともある。ぐしゃぐしゃに泣き疲れて明け方にようやく眠れる…そんな毎日だった。

学校に行くのも地獄、夜が訪れるのも地獄だった。

メンタルクリニックの先生は「その幼児期の体験がトラウマになっているんだろうね」と分析して下さったが、まさにその通りだと思う。

「眠らなくてはいけない」と思えば思うほど眠くならない。それは今もずっと続いている。

 

それこそ10代20代の若いころには体力が今よりあったので徹夜に近い毎日でもなんとか過ごせていたが、年々ダメージが蓄積されるお年ごろになってしまい、今では日中フラフラだ。たまに道端で立ちくらみを起こしてしゃがみこみそうになったりもする。これはさすがにまずい。

 

ちなみに今はデエビゴとゾルピデムとトラドゾンとトリプタノールを不眠改善のために服用しているが、どれもサプリメントレベルの効き目しかない。

メンタルクリニックでは睡眠薬の変更を何度もお願いしているものの、他の服用薬との兼ね合いもあるようで未だに変えて頂けずにいる。

抗うつ剤PTSDに有効なものを選んで下さっているようだが、そちらも効いているのかいないのか…だ。(とはいえ読書ができる時間も増えてきたので、悪化はしていないのだと思う)

 

眠くなりはしないものの、睡眠薬のちゃんぽんは頭は揺れるので横にはなる。

結果、天井を眺めてぐるぐる色んなことを考えてしまい、ますます眠れなくなってしまうという負の連鎖。

でも最近では「死んでしまえばずっと眠り続けられるわけだし、まぁいいや」とポジティブに考えるようにもなった。

 

余談だがヤクルト1000は睡眠の「質」を向上させてくれるものなので、そもそも眠れないとあまり意味がないと身をもって学びつつある。

翌日しんどさが抜けない時にはシロタ株の頑張りが足りないわけではない。デエビゴとゾルピデムのやる気のなさの方が問題なのだ。