いのち
生きるということは何かを得、やがてその何かを失うことだ。
どんなに大切なものがあっても、どんなに愛する存在があっても、鬼籍に入る時には何ひとつ誰ひとり持っていくことができない。
命はお金では買えない。
確かに財力があれば治療の選択肢は増える。延命に結びつくこともあるだろう。医療も目まぐるしい進化を遂げている。
けれどどれだけ大金を積もうが私財をなげうとうが決して叶わぬこともある。
人は経験からそれを学ぶ。
近しいものをひとりふたりと見送ることの積み重ねから時間が有限であることを知る。
漠然としていた『死』というものが少しずつ現実味を帯び、そこで初めて様々な葛藤を抱える。
失った者への後悔、己に残された時間への焦燥、そして全てが無に帰すことへの恐れ。
短命家系に生まれ育った私にとって、死はいつも身近なものだ。
別れはいつも突然で、どんなに嘆き悲しもうとも時間は巻き戻せない。
誰かを失った時、他の存在でそれを埋めたり癒せたりできればいいのだが、実際にそんなことができる器用な人間になどなかなかなれない。
明日どころか次の瞬間に自分がこの世にいるかどうかさえわからない。
だから今この瞬間を大切にしなくてはならないと痛感しているはずなのに、人はまた弱さに流される。
「明日でいいや」ほど傲慢なことはない。なぜ明日がまた訪れてくれるだなどと確信をもてるのか。
様々なことを考えるにつれ、ただただ虚しくなり動けなくなってしまう。
私は「今が楽しければそれでいいや」という思考が好きではなく「今日は苦しんで明日は少し楽だといいな」の積み重ねで日々を歩みたい。
でも果たして明日は訪れるのだろうか…?
必死に財産を築いても命尽きてしまえば遺った者たちの諍いの種にしかならなかった父の生き様と死に様を見てきたし、必死に積み上げたものが一瞬で崩れ去る無情さを我が身をもって経験してきた。
もういいのではないか、どんなに頑張っても行き着く先には何もないではないか、ただ流されて日々を重ねていけばいいのではないか、なんなら今この瞬間に尽きたとしてもいいではないか…日々そんなことを呻吟する。
必死に何かを得たとして、墓場までそれは持っていけないと考え始めてしまえばこんなに虚しいことはない。
「頑張って生きましょう!」なんて前向きな言葉は1ミクロンも出てこない。
私の思考はいつも矛盾だらけ。
肯定したいのに否定するしかなかったり、建設的に生きたいはずなのに抑え難い破壊衝動がいつも存在したり。
この命はなんのために存在しているのだろう。
この人生に果たして意味はあるのだろうか。
いつかその答が見つかるのだろうか、生涯見いだせぬままなのだろうか。