闇より深い闇ブログ

闇深き奇天烈人間のブログ

ダメなところ 其ノ壱

『優しさだけでは生きていけない

   でも優しい人が好きなの』

大好きな歌詞だ。

心からそう思う。優しい人間が生きるには現実は残酷すぎるが、それでも優しい人が好きだ。

では『優しさ』とは一体なんだろう?

 

友人に恵まれ、家庭以外の世界ではたくさん周囲の優しさに救われてきた。

話している時の声の調子だったり、連絡した時の文章の感じであったり、連絡の頻度であったりの小さな変化から何かしら感じてくれた時にはさりげなく向こうから「どうした?」と聞いてくれるような子たちが今でもずっと傍にいてくれる友人たちだ。

同じように私も彼ら彼女らの小さな変化には敏感に反応する。理屈ではなく長年の付き合いの中で培われた感覚で無意識に理解できる。

ひとりひとり性格や気質は違っても、その根幹はみんな暖かく優しくて、私はそんな友人たちが大好きだ。

 

悲しみ特化型の人間なので友人知人が酷く落ち込んだ時の駆け込み寺になることが多い。

もちろん楽しいことも共有はするが、それよりも圧倒的に人生に於けるマイナスの話をされることの方が多い。

たくさんの人たちと笑いあうことはあまり得意ではないし、負ってしまった心の傷を癒せる力だって持ち合わせてはいない。

それでもその傷が化膿したりしないように、ほんの少しでも痛みがましになるように、薬にはなれなくてもキズパワーパッドのような存在になりたいといつも思っている。

受けた傷がなかなか治らないことはよく理解しているし、他人が助言したところでなんの解決にもならないし、最後には自分で立ち向かっていくしかないのが人生だ。

その上で、でもどうしても放っておけない。

私はその痛みを知りすぎているから。

時間しか解決しない痛みも、恐らく生涯続くであろう痛みも抱えているから。

そして。

全部ひとりで抱えるしかない、でも時々触れる人の優しさや思いやりに助けられて「もうちょっとだけ頑張ろう」と思えることを知っているから。

 

申し訳ないことに器量不足で空回りしかしないのに、頭で考えるより先に口から言葉が出てしまう。

 

SNSで不特定多数の方々と交流させていただく機会が増え、それが自分の最大の欠点であるということに何度も気づかされるやり取りがあった。

例えば落ち込んでいる相手に「話すことで楽になることがあったらいつでもなんでも話してね」ということが大NGだと学んだ。

これは優しさの方向性がおかしく、私のようにおかしな慰めをする人間はSNS上ではまずいないらしい。

「聞いて欲しいことがあれば自分からいうからそれまで放っておいてくれ」という至極当然の感情を私は汲み取ることができなかった。

優しさにもいろんな形があり、敢えて言葉をかけないことも優しさであるのだということを改めて気づかされた。

なんとも情けないことである。

さらに情けないことに、手酷く学習したはずなのにまたもや同じような場面でいけしゃあしゃあと余計な言葉をかけてしまう。学習能力がないのか理性がないのか反射だけで生きているのか。

思わず言葉をおかけしては後に猛省...そこから「やはり私は人間関係の構築が絶望的に下手くそな人間だ、もう消えてしまいたい」と落ち込む。

多分SNS向きではないのだろうな、とも思う。

余計なことをしすぎてしまう。

 

こんな私の気質を理解し、それを善しとしてくれる人が私の友人たちだ。

合わない人にはとことん嫌悪されるタイプ。

自分でもいちばん嫌いなところで、でもそこを失ってしまうと私という人間ではなくなってしまうところ。

過去にかけた様々なNGワードを反芻しては真夜中に己の不甲斐なさに悶々としてしまう。

相手によって接し方を変えることは理解しているが、言葉だけのやり取りのSNS上ではそれが上手くできない。

顔色を見ることもできないし、相手の本質になかなか気づけないから痛恨のミスで相手を傷つけたり不快にさせてしまうこともしばしば。

本気で『SNSに於ける優しさ講座』を受講したいといつも思っている。