価値と幸せの話
世界でいちばん自分が無価値だと思っている私にはいつも生きる理由が存在しない。
この感覚を理解できる人はいないかもしれないが、決して投げやりとか自暴自棄とかではなく、言葉の意味そのままにただ自分のことが他の誰よりいちばんどうでもいいと思っているだけだ。
だから、こんなにもどうでもいい存在を必要だと言ってくれる人には喜んで全部を差し出そうとするのだが、相手が言ってくれた「必要」と自分のそれとの温度差があまりにも違いすぎることにしばしば絶望する。なんとも強欲な話である。
でも、必要とは「必ず要る」ものなのではないのか。
その存在がなくなったら息もできなくなるほどの、この世界のどこにも代わりがないものなのではないのか。
少なくとも私にとっての必要はそういうものだ。
それゆえ相手にとって自分はさほど必要ではないと感じてしまった瞬間に己の無価値さを改めて噛み締め、そっと距離を置く決心をする。
幸せになりたいと考えたことがない。
ベースに「自分が生まれてきたことによって不幸になった人たちがいる=忌むべき存在」という思いがあるので、そんな烏滸がましいことは考えてはいけないと無意識に捉えているのかもしれない。
それになんとなく幸せとは意識して得られるものではないような気もする。幸せをよく知らないからわからないが。
いつもどこか冷めた目で自分の生き様を俯瞰しているもうひとりの自分がいる感覚。
とはいえ自分が天から何も与えられなかったり取り立てられるばかりの人生であっても、他の人間も不幸になれと妬み嫉みを持つことはない。
理不尽なことも多いのが人生だけれど、幸せに暮らしている人たちだってきっとそこに到達するまでには様々なことがあっただろうし、幸せを維持することだってきっと大変だ。
心が寂しいときにはほんの少し羨ましくなったりもするけれど、私の辛さは私だけが抱えていくべきものであり誰のせいでもない。
幼稚な人間なので瞬間湯沸かし器のように腹をたてることもあるし、その感情を相手にぶつけてしまうこともある。
でも時間が経てば「ごめんなさい」と思う。
もう仲直りできないであろう相手も何人かいるけれど、もしその人たちが困っていたらいつでも私は助けたいと思う。相手はきっとそれを望んだりはしないだろうけれど。
そしてどんなに腹をたてた相手でもやっぱり「不幸になればいい」とは思わない。幸せを祈れるまで…は微妙な相手もいたりするが。
私にとっての「幸せ」はきっと、誰かに必要とされることだったのだと思う。
私が考える「必要」の重さで誰かに必要とされることだったのと思う。
そしてきっと、こんな私をそこまで必要としてくれる相手には生涯出逢うことはない。
だからいい。幸せになれなくていい。
最近やっと人生におけるいろんな諦めがつきました、というおはなし。