作曲家への道
高校を卒業する直前に「音楽で生きていきたい」と親に宣言し、生まれて初めて父に殴られそうになった。
それでも私の意思が変わることはなかった。
趣味で音楽を続けていくなんて発想はなかった。
音楽を仕事にしたくて堪らなかった。
24時間365日、可能な限り傍にいたいもの…それが音楽であり、作曲であったから。
そして私は「1年間待って欲しい。その間に何かしら結果が出せなかったら音楽を生業にすることは諦める」という条件を叩きつけるという強硬手段に出た。
恐らく両親は結果など出せないと思っていたはずだ。
でも私は負けん気だけは強かったので、何がなんでも結果を出してやると決心していた。
それから狂ったように曲を作り、そのうちの数曲をある音楽家に送りつけるという暴挙に出た。
するとその半月後ぐらいに、なんとその音楽家から連絡がきた。
ここで詳しく語ることは控えたいが、その方は若い頃はミュージシャンとして活躍なさっておられ、映画音楽を手がけられたこともあり、今現在は音楽ゲームのクリエイターとして活躍なさっておられる有名な方だ。
18歳の初夏、私はその方と会うことになった。
その日は私の人生でいちばんかけがえのない日となった。
「あなたの楽曲にはスティーヴン・キングの作品のような闇がある。それがどこから来ているのかがとても気になる」「今の作品だと宇宙人が話しているようなもので誰からも理解され難い。でも僕には何を言おうとしているかがわかる。だからあなたの作品を他の人たちにも理解できるものにすることが僕の使命」と仰って下さったその方は、その日私を作曲家の弟子にして下さった。
とはいえ私は未成年で親は厳しく、実家を離れることなど許されるはずがなかった。
そのため、当面は「1日2曲楽曲を作り、それを2週間ごとに提出。それを聴いて頂き指導して頂く」という形を取ることになった。
プロの作曲家の先生に弟子入りできたということで親への「結果を出す」という条件もクリアできたので晴れて私の作曲家への道は拓けた。
但し、それは茨の道への第一歩でもあった。
まず、1日2曲作るという課題は相当にきつい。
私の曲の作り方は何台ものシンセサイザーやリズムマシーン、サンプラーなどの機材をMIDIで繋ぎ、全てのトラックを自分一人で入力・録音して作るという手法なのでそれなりに時間もかかる。
日中は学校があり、それが終わったらアルバイトに行き、夜に作曲。
2週間ごとに電話で28曲の楽曲がいかに酷いものかをこてんぱんにしごかれる…そんな日々が続いた。
作曲の勉強といっても譜面の書き方や専門知識を教えて頂いたり学んだりしたことはなかった。
作った曲ひとつひとつの背景を確認して頂き、イメージの具現化の駄目出しや詰めの甘さの指摘を受けることが主だった。
モノ作りとしての心の持ち方、ものの見方、プライドの保ち方、そして生き方…そういうものを沢山教えて頂けた日々だった。
ある日、こんな話をして下さったことがある。
「喩えはとても悪いけれど、黒人の歌声の説得力は白人にはなかなか出せない。それは黒人が迫害されてきた悲しく尊いバックボーンが遺伝子に植えつけられているからなんじゃないかなと僕は考える。あなたの楽曲にある説得力はあなたのその生い立ち故に得られたものだと思う」
この言葉を聞いた時、初めて私は自分の人生を肯定することができた。
辛く苦しい自分の出生を赦すことができた。
いや違う、赦された気がしたのだ。
私の先生は、私以上に私を理解して下さっている唯一無二の師だ。
楽曲を通して私も知らない深層の私をご覧になってこられたのだから当然だ。
こんな私のいちばんの誇り。
そして、1日も欠くことなく2曲ずつ作り続けたあの日々は、私の生涯で唯一頑張れたと胸を張って言えるものだ。
だから私は1000曲近くの曲を作ってきた。
その中で「これは完成形だ!」と言えるものは何十曲ぐらいしかない気がするのはとても情けないことだが…
私にとって音楽は伴侶だった。
死ぬまで添い遂げられる絶対的な存在。
代わりなんてあろうはずがない。
音を綴ることだけが私の存在意義で、そのためだけに私は生まれてきたのだ。
そう信じていた。