闇より深い闇ブログ

闇深き奇天烈人間のブログ

好きにはなれない

たまに「自分を好きになりましょう」と言われることがあるのだが、全くもってピンとこない。

自分を好きという想いが度を越すとナルシストになってしまう気がするし、そんな気持ち悪い感情は持ちたくない。

ましてやそれが自己肯定感に繋がるといわれてもますます脳内コンフュージョンが悪化するばかりだ。

そもそも自分を肯定?存在自体が許されない私のような人間が自分を肯定することはただの開き直りや正当化にはならないだろうか。

 

自分の嫌いなところはたくさんある。

とはいえその対極に反転してみたいかと言われればそれも御免蒙りたい。

「0か100か気質」を非難されたこともあるし確かに自分でもしんどいのだが、34や42で満足する自分はもはや自分ではないとは思う。やはり可能な限り100にこだわりたい。

「繊細な人間はTwitterに向いていない」というある方のツイートを拝見し、確かに些細なことで傷つくのは辛いと思ったりもしたのだが、自由奔放に発言した結果知らないうちに誰かを傷つけてしまうような人間にもなりたくはない。

とてもしんどい生き物だし、自分の欠点も数多自覚してはいるものの、人間改革をして今とは違う種類の(自分が思う)ダメ人間にもなりたくないのだ。

 

こんなうじうじ人間なので、歯に衣着せぬ人からは罵詈雑言めいたことを言われることもある。その都度猛省したり悲しくなったりもする。

「意味不明」と言われたりもした。きっとそうなんだろうな、とも思う。

 

自分を否定したいわけでもないが、やっぱり肯定できる材料はなかなか自分では見つけられない。好きにもなれない。

だから自分を大好きな人や自信しかない人を見ると、自分とは別の世界にいらっしゃるのだな…と眩しさに目を細めながら一歩二歩と下がってしまう。

その光に近づくと干上がってしまうので少し離れた場所から「凄いなぁ」と静観させていただくのがいちばんいい。

メンタルクリニック

今日は月に一度のメンタルクリニック受診日だった。

少々辺鄙な場所にあり、公共交通機関を使っての通院だと恐ろしく時間がかかってしまうので最短距離を自転車で行くことにしている。

ほとんど効かない睡眠薬抗うつ剤、頓服の精神安定剤を頂くために通う片道40分のサイクリング。

 

今かかっている病院ではカウンセリングを受けている訳ではないので診察は10分ほどが上限だ。

先生が電子カルテに入力なさる時間も必要なので、説明は最低限にまとめてお伝えしなくてはならない。

結果、いつも「しんどいことが色々ありました」や「生きているのが辛いです」に凝縮されてしまう。

 

先生も環境を変えることができないことは十分理解して下さっている。

家庭内は変わらない。物理的な逃げ場はない。そしてしがらみ全てを捨て置き自分だけ自由になりたいと思えるほど私は冷淡にはなれないし、そもそもそこまで生というものに執着がない。

だからもう対処療法しかない。

薬で可能な限り衝動を抑え込むしかない。

 

家庭内が地獄絵図なのだから、せめてそれ以外の場所に救いがあれば…と先生も仰って下さる。

でもそんな場所もどこにもない。

心のいちばん深いところで誰も信用することができない。

 

「あなたがいちばん」と言われても「いちばん」という言葉の段階で拒否反応が起きる。

普通は「あなた“だけ”」であるべきなのではないのか。いちばんということは2番もあるわけで、だったらそんな気持ちはご遠慮申し上げたい。100じゃなきゃいらない。…となってしまう身の程知らずの贅沢な人間なのだ。

それにそもそも何かに順番をつけること自体が好きじゃない。2番以下の気持ちを考えてみたことがあるのか…まで考えが及んで苦しくなってしまう。

めんどくさい人間だと自分でよく理解している。だから自分から率先して他人に近づいたりはしない。

誰かに依存したいと思ったこともない。依存させてくれるような奇特な人が存在するわけがないと達観している。(依存されたいとはたまに思うが)

優しくされたいから誰かに優しくしようなどという駆け引きめいた感情で動くこともない。思いやりは自発的なものであり、そこに損得感情が見え隠れした段階でそれは優しさでもなんでもない。

自分がされて嫌なことは相手にしない…それも当たり前のことだ。

だけど現実にはあちこちに駆け引きが存在し、自分の醜さを痛感する場面ともたくさん遭遇してしまう。

 

原因が何だったのかを考えてももはや意味はない。

今、自分に起きていることひとつひとつと上手く折り合いをつけていくかしかない。

わかっている、わかっているのだが私は弱い。

弱すぎるのだ。

 

私の世界

今日は久々に母と口論になった。

少し前にTwitter内で辛いことがあり、それを引きずってしまい家で塞いでいることが多かったのが気に食わなかったのだろうか…「うつか何か知らんけどあんただけがしんどいんちゃうわ!」と大暴れされた。

しまいには「あんたなんか産まへんかったらよかったわ。何度も病院に堕ろしに行こうとしたのにあんたの父親に止められて、お陰で私の人生もこんなことになってしもたんや!」とまで言われた。

 

これが、私がいる現実の世界。

1ミリの嘘もない、現実の世界。

 

無責任に「頑張れ」なんて言わないで欲しい。

今この瞬間に呼吸をすることだけでもういっぱいいっぱいなのだ。

私がいる場所は間違いなく地獄だ。

生まれてくるべきではなかった。産んだ親が言うのだから間違いない。

 

遥か遠くからもの珍しそうに眺めてくれるだけでいい。かわいそうだなんて言わないで欲しい。

救いの手を差し伸べようとするのもやめて欲しい。いざ片手を出してみたもののやっぱりめんどくさいからと振り払われるのがいちばんきつい。だったら最初からひとりでいる方が遥かにましだ。

私の心は底なしの暗闇だ。

心に光など灯ろうはずがない。生まれてからずっと私がいる世界はこんなに歪みきっている。

生まれてきたことが間違いだから、せめてこれ以上は世間に迷惑をかけないように、枠からはみ出ないようにとひっそり生きているつもりだ。

なのに辛いことがどんどん起きる。たまに泣き叫びたくなる。それさえも許されないのだろうか。

こうやって言葉の中で泣くことも他罰的行為になってしまうのだろうか。

 

効きもしない精神安定剤睡眠薬でなんとか感情を捩じ伏せ、今この瞬間も呼吸をしている。

情けないことだがそれが今の私の精いっぱい。

非力

3匹目の子猫も虹の橋を渡ってしまった。

100g前後で生まれるはずなのにみんな70gもなかった。きっと未熟児だったのだろう。

出産を終えぺったんこになったお腹を改めて見ると母猫の痩せ方も尋常ではない。もうその姿だけでも泣けてくる。

他に何かしてあげられることはなかったのだろうか。

なんのために私はいたのだろう。

 

私の人生はいつもこうだ。

大切なもの、大切にしていくはずのものはいつも掌から零れ落ちる。

必死に抱えていても容易く風に攫われる。

置いていかれる私はいい。攫われた大切なものたちは少しでも幸せでいてくれただろうか。苦しくはなかっただろうか。私は少しでも彼らを幸せにすることができただろうか。

 

 

マワルセカイ

猪突猛進な人生を謳歌しているように見える私だが、実際は石橋は叩いて渡らない慎重派だ。

動物をお迎えするときには大前提で「ただご飯をあげて楽しく暮らせるわけではなく、病気や怪我もする」と想定し、その生涯にかかる医療費まできちんと責任が取れるかも考える。

さらには全ての家族(家の中の猫、外猫、かたつむり)に等しい愛情をかけたいと思う。懐いてくれる子を贔屓するなんてことは絶対にしたくない…これは甘え下手な私が様々な場面で経験した切なさを踏襲している。

そういう意味でもあまり沢山の毛深い家族をお迎えすべきではないと自覚し、ブレーキをかけている。

 

今回はひび割れ寸前の石橋を渡り始めている。

けれど何百回同じシチュエーションになっても私は同じ選択をしたと思う。

 

外で喧嘩をしていた猫を保護。

人懐っこいからきっと飼い猫さんだと思い獣医さんにマイクロチップの確認に行く。

マイクロチップは入っておらず妊娠しているとその場で発覚、検査して頂くと早ければ5日後には出産するという診断。

飼い主さんや世話人さんがいらっしゃるにせよまずは出産させてあげる環境を作るしかない。

猫用ケージを準備したり出産ハウスを作っている間に5日が経過。

夜、唐突に1匹目を出産。

その6時間後に2匹目を出産するも死産なのかと思う状態。タオルでカイロを低温やけどをしない程度に温め、その上で数時間撫でてなんとか毛を乾かし、母猫の母乳に近づけ飲ませるもほとんど飲まず。

さらに母猫のお腹に3匹いるはずの子猫の出産がストップしたまま15時間が経過し、獣医さんに相談。2匹目の状態も思わしくないので3匹全員を診て頂く。

母猫には子宮収縮剤を投与し出産を促し、2匹目は母猫の傍に置きいよいよになったら私たちがミルクを飲ませる方向になった。

帰宅後、無事に3匹目が生まれるも夜に1匹目の呼吸音がおかしくなり、2匹目と同じような処置をしたが虹の橋を渡った。不甲斐ない。

獣医さんにお聞きしたところ、先天性の呼吸器疾患があったのだろうというご説明だった。

その翌日、持ち直した2匹目も状態が急変。温めようとすると母猫が警戒して触らせてくれない。やきもきしながらも母猫に委ねるしかなく、母猫が落ち着きケージを覗いた時には虹の橋を渡ってしまっていた。首には噛み跡、手はちぎれかけていた。辛すぎた。

3匹目は今のところ無事だが、2匹目と同じことを母猫にされてしまうのではないかと心配で仕方ない。そして成長もあまり芳しくない気がする。

万が一の時には私が2時間おきにミルクをあげようと思いつつも不安しかないので保護猫活動をなさっている団体に念のため相談させて頂いた。

 

母猫は野良さんだったのに急に家に(しかもケージに)入れられ、出産や育児が始まりいっぱいいっぱいなのだろう。

外での生活では食事もままならず、子猫たちにも十分な栄養は与えられていなかったはずだ。しかも出産に相当な時間がかかったのだから子猫たちが衰弱しきっていても仕方ない。

その子たちを救おうとしたとはいえ人間の手が自分の子を連れ去るのではないという恐怖を感じて母猫は凶暴になっていたと考えられる。

一度人間がミルクをあげ始めると母猫に戻すことは難しくなるので、まずは母猫が子猫のお世話をすることに委ねる。3匹目が明らかに衰弱しているようであれば、その時に腹を括って母猫から取り上げる。

…そういうアドバイスを頂いた。

 

親子のケージを少しでも暗く静かな場所に移し、そっと眺める…今日はそうやって様子を見ている。

 

僅か数日しか接していないのに、小さな2匹とのお別れには心を抉られた。後悔や申し訳なさや悲しさでぐちゃぐちゃになった。

そして3匹目が無事に成長してくれるのか、それが今は本当に怖い。

 

私がしていることは無鉄砲で無計画なことかもしれない。いや、自分でもそう思う。

ただあの時には他に選択肢がなかった。見捨てるという発想は私にはない。綺麗ごとだとよく理解している。

でもこんな馬鹿がたまにはいる…そういう世界があってもいいと私は思う。

ニャンゲル係数が大変なことになってきたら泣きながらサトルゴジョーの増殖を我慢する。自分の食費を減らす。

父が私に遺してくれたお金が果たしてあといくらあるのかわからないけれど、それらを全部動物に使っても父は「お前らしいな」と笑ってくれると思う。

だから、これでいい。

 

体力的には相当きている。

先週の土曜日の保護から一週間強、はっきり言って寝ていない。体を横にする時間はあるがほとんど眠れていない。

でも、それもこれでいい。

動物に何かする時には不思議とまったく「ああ大変だな」とは思わない。

たまたま私は人間の形をしている。彼らは猫の形をしている…ただそれだけの違いしかない。

私の方が少し大きくて色んなことができるから彼らのお世話ができているだけだ。

 

そうやって回る世界に私は存在していたい。

嫌いきらい大嫌い

頚椎をまたおかしくしてしまったらしく、首から左手親指にかけて灼けつくような痛みと痺れが走るので整形外科に通っている。

今日は連休明けの通院日で、病状が思わしくないのでノイロトロピンの注射をしばらく続けた方がいいと主治医に勧められ受けてきた。

 

私は色々な科に通っているので、処方された薬は検索し、副作用などにひと通り目を通すのが習慣だ。

今日もいつも通りに「ノイロトロピン」を検索した。

するとそこには「ワクシニアウイルス接種家兎炎症皮膚抽出液」という説明が記載されていた。

 

この言葉を理解するのに数十秒かかった。

 

その後さらに検索し(果たして事実かどうかはわからないが)なかなかにショッキングな解説も読んだ。

 

究極の動物特化型の偽善者、且つ齧歯目を偏愛している人間としては正直狼狽えた。

ここで私が想像した映像を文章で表現することは控えるが、あれこれ考えるにつれいたたまれない気持ちになってしまった。

 

医療の恩恵を受けている身でありながら薬の製造工程についてとやかく言う権利などあろうはずがない。

しかも生き物が好きと言いながらベジタリアンに徹しているわけでもなく、命の重さは全て同じと言いながら蚊は平気でバチンとやっつけてしまう。

そういう自分の矛盾と中途半端な偽善っぷりが嫌で嫌で仕方ないのは昔からずっとだ。

 

つまり全てが中途半端。

そして、その中途半端さと上手く付き合えるわけでもなく振り回され、勝手に一人で訳のわからないぐるぐるワールドに陥ってしまう。

そんな自分が本当に本当に本当に嫌だ。

 

「ちょっと辛いのでこのお注射は無理です」なんて言ってもいいのだろうか。

そう発言することは、この薬に救われておられる沢山の方々やお薬を開発なさった方々、さらにはこの薬の製造に関わった尊い生命をも否定してしまうことにはならないだろうか。

 

こんなことばかりをぐるぐるぐるぐる考えている。

そんな自分がやっぱり大嫌いだ。

珍獣

私は珍獣のような生き物だと自分で思っている。

感覚がかなり一般からずれているのを自覚しているし、感情の緩急も特異だ。

仲間はどこにもいない、この世界にたった1匹の異端の珍獣。

自分の目で見えている世界はきっと他の人たちのそれとは違うから、話をしてもどこか噛み合わない。

 

いつもは強がってやさぐれているけれど、本当はひとりぼっちなのが寂しくて夜になるとぽろぽろ涙が落ちる。

どうして自分は他の人たちとは違うのか、ひとりぼっちなのかと自問自答を繰り返す。

 

そんな珍獣に同情したり、少しもの珍しいからと寄ってきてくれる奇特な人がごく稀に存在する。

その人は最初は惜しみない愛情を注いでくれる。その愛情は暖かく、心地よくて擦り寄り懐きたくなってしまう。

でも懐き方も甘え方もわからない。

そのうちに飼い主になろうとしてくれた人は飼いにくさを痛感し、珍獣は放置される。

可愛いわけでもなく、醜い心とめんどくさい性質をもったおかしな生き物に飽きて愛想を尽かす。

 

泡沫の夢だったのだと、残酷な夢だったのだと思い知らされ、淡い眠りから目覚めてすべてを理解する。

もう悲しみという感覚さえない。

ただその現実を受け容れることしかできない。

 

誰からも愛されないのは全部自分のせいなのだから。

誰からも必要とされないのも全部自分のせいなのだから。

 

でも。

これだけは言わせて頂きたい。

 

その子を死ぬまで飼うだけの覚悟がもてない人間には動物を飼う資格はない。(唐突に覚醒する珍獣)

 

「気が向いた時だけ構えばいいや」「飽きてきたからもういいや」「なんだ、思ったより可愛くないからいらないや」

酷い、酷すぎる。

 

珍獣にだって感情はある。

覚悟もなく手を出さないで頂きたい。

珍獣は真っ暗闇の奥底でひっそり丸まって、誰の迷惑にもならないようにひっそり暮らし、そこで朽ち果てようとしているだけの生き物なのだから。